ミス首都大2014高井ひろえの読んだ!観た!感じた!
映画「バードマン」の大きな特徴の1つ。それは、冒頭と終盤の数カットを除き、全編のほとんどが超長回しのワンカットで撮影されているところです。なんと約2時間に渡って、カットなしでの映像が延々と続きます。
その長回しのショットは、すべての瞬間、すべての段階で、出演者の動きや顔の向きでさえも事前に決めておき、1発勝負で撮影するという方法でなされたのだそうです。そうです、失敗が許されないのです。イニャリトゥ監督と出演者の努力は想像を絶しますね・・・・。
実際のワンカットは、ものによっては10分以上のカットもあります。これらの長いカットを、編集で切れ目のないようにつなぎ合わせ、ほぼカットなしに見える映画が出来上がったのです。
長回しでどう感じるかは、自分次第?
この長回しをするカメラの視点を、他のコラムでは「臨場感がわく」「主人公が力強く感じる」「神の視点のようだ」と紹介されていました。
でも、なぜ、このような感覚を覚えるのでしょうか?
実は、私は、「神の視点」で観ているというよりは、まるで自分が死んでいるかのような錯覚を覚えました。人それぞれ表現する言葉は違えど、何かしらの不思議な気持ちを感じているのかもしれません。
長回し映像と、カットの多い映像の違い
カットの多い映像では、現実世界で1人の人間がなし得ないような視点の変化が起こります。例えば2人が向き合って話しているシーンにて、Aさんの顏が映り(Bさんの背後からの撮影)、その後すぐにBさんの顏(Aさんの背後からの撮影)に切り替わるなど。背後から背後へ一瞬で移動するのは不可能ですよね。
そんな映像を観て、無意識のうちにみなさんは、「これは映画の世界だ。」と、現実世界との違いを感じているのです。
しかし、この映画では、楽屋にいる主人公を映しているかと思えば、振り返ってドアを向き、ドアから部屋に入ってくるマネージャーをとらえる。そして部屋をでていく主人公を追って、舞台裏の迷路のような通路を自由自在に映してまわる。
現実世界ではありえないような、視点の飛躍がないです。現実世界と映画の世界の時間が一致しながら進むので、物語に没頭すればするほど、だんだん現実世界との境界線がなくなってゆくのです。
ラストシーンでは、まるで自分は舞台を見守る観客のようだと思い込むでしょう。
ただ、カメラの視点は、「あなた」という登場人物の視点ではありません。カメラには出演者の誰もが注意を向けませんし、まるで浮くように自由自在に世界を見下ろせます。映画の世界に入り込んでいるのに、まわりは誰も気づかない。なんだか、自分が死んで人間でない何者かになったら、こんなふうに世界が見えるのかなあ・・・とまで考えてしまいました。
自分が「無」の存在となって、映画の中に溶け込むことができる。カメラの長回しには、そんな力があるのです。
思わぬ世界に連れてこられてしまった観客が、どう感じるのかは、その人次第なのだと思います。みなさんはどう感じますか?